2010年
8月
12日
木
人工の生物 --- 論点拾う対話を急ぎたい
「人工の生物/論点拾う対話を急ぎたい」
尾関章(おぜきあきら/編集委員)
人工生物に限りなく近い細菌をつくった、と米国の民間研究所のチームが発表したのは約3カ月前のことだ。このニュースをめぐって、もう少し議論があってよいと思うのだが、それほどの広がりを見せていない。
DNAの断片を合成してつなげ、生命体一つ分のゲノム(全遺伝情報)をつくる。これを、器となる細菌に入れ、もともとあったゲノムの代わりに働かせて増殖させたというのだ。
チームを率いるのは、クレイグ・ベンター博士。人のゲノムの解読で、公的な研究陣営と激しく競い合ったベンチャー界の大立者だ。自伝「ヒトゲノムを解読した男」(野中香方子訳、化学同人)で、ゲノムの次は生物の合成だと宣言していた。
人工生物は、最近盛んになった合成生物学の究極の産物といえる。それは薬づくりや環境、エネルギー問題の解決などに役立つかもしれない。たとえば、燃料を生産する生物などだ。
だが、倫理、安全面では遺伝子組み換えと同様、懸念材料がある。兵器に使われないか。健康を脅かさないか。生態系を損なわないか。進めるにしてもブレーキを踏みながらだろう。
それだけではない。生物を一から組み立てるというのは、すでにある生物に取り込みたい遺伝子を入れる組み換えとは次元が異なる。問題も奥深い。
ベンター流は、その組み立ての第一歩として、生命の存続に必要な最小の遺伝子セットを探そうとしている。あとは目的に応じていろいろつけ加えよう、という戦略だ。
「そこには、生物は進化の中で不要なものまで抱え込んできたという生命観がある。川の蛇行をまっすぐにするように、生物のしくみも人に都合よく単純にできるという考え方だ」と東京大学先端科学技術研究センター特任教授の米本昌平さん(科学論)は言う。
この生命観は、自然科学にとどまらず人文系の世界にも衝撃を与え、論争を呼ぶだろう。
注目すべきは、ベンター博士らが、こうした根源的な生命探求を自分たちの手でやってのけようとしていることだ。実用の枝葉を広げる化学の根っこを、特許などを通じて一民間チームが押さえるという未来図も見えてくる。基本ソフトの開発企業がIT社会で巨大な力をもつのと似た状況が現れないか。知的財産権論議の火種もはらむ。
英国では6月、関連分野の研究予算の配分を担う公的機関が「合成生物学対話」と題する報告書をまとめた。討論集会や専門家からの意見聴取をもとに、この研究に対する期待と心配をあぶり出したもので、科学者の知的情熱から企業の投資意欲まで幅広く俎上に載せている。
新登場の研究をまえに最初から推進派と反対派に分かれるのではなく、まずは論点を拾い尽くす。そこから適切な向き合い方を探る。そんな科学対話が日本でも急がれてはいまいか。
(朝日新聞 2010年8月12日 朝刊10面「記者有論」欄)
2009年
5月
01日
金
連載「ケアをめぐる交話(クロストーク)」『看護学雑誌』
広井良典, 『ケア学』の新地平 広井良典のケアをめぐる交話(クロストーク), 看護学雑誌, 2004-01〜2005-01
【第4回】ケアと遺伝医療 高田史男
私は長年、先天色覚異常にまつわる問題と向き合い、市民活動を行ってきた。私がスタッフの一人として運営してきた「色覚問題研究グループぱすてる」という 市民団体では、色覚異常に関する電話相談窓口を週2回開設し、およそ20年になる。回答者は当番制で、私も担当する。まれに一日中まったく電話が鳴らない 日もあるが、平均して日に2〜3本、多い日は5〜6本ほどの相談や問い合わせを受ける。
先天色覚異常は遺伝法則によって引き継がれるインペアメントで、持ち込まれる相談のほとんどが遺伝にまつわる内容である。つまり電話を受けている私の立場は、この高田氏の言う「遺伝カウンセラー」なのである。ここで氏によって提供された話題は、私がいままでの経験と若干の知識によって身につけたものとほとんど同様の感覚で、まさに我が意を得たりという心境であり、まったく違和感がない。しかし私に欠落していた点がひとつあった。保険制度の問題である。
いままで私は、次のように考えていた。------ 先天色覚異常者にはいくらかの社会的制約がある。制約に出会ってから自身の身体を自覚するようでは遅いので、なるべく早く知り、対策を立てておいた方がよい。「知らされないでいる権利
(註)」を行使すると、当然、責任の負えない問題が発生する。知らないのだから本人に責任はない。だから、もし自己責任を負いながら自分の意志で生きていきたいと思うのであれば「知る権利」を行使するべきである。一方、「知らされない方がよい」という選択をするのであれば、少しは無責任でいられることになり、精神的に気楽になる部分が発生する。------
私はここに保険の問題が絡むとまで、思いをめぐらせていなかった。
保険については早急に制度を変える必要があろうが、現実的なことを考えると、制度の再構築を待ってはいられない。あした電話をかけてくるかもしれない相談者に対して、私はどのように回答するべきか。考えているうちにあれこれ逡巡したが、やはり、一般的には「知る権利」を行使したほうがよいだろうと思い至った。そのほうが、自己責任を負える分だけ、人生における有効な選択肢が増えることになるからである。他方、「知らされないでいる」ことを「選択」すると、その後の重要な責任を放棄し、その分だけ自己決定権を失うことになってしまうかもしれない。「選択」の時点で意志が働いているのであるから、権利が縮小されてもやむを得ない(そうはいっても「知らされないでいる」ことが精神的な安定を得るために必要な選択であろうことは間違いない)。
なお、私が付け加えたいと思う点がひとつある。高田氏は、遺伝情報を抱え、インペアメントを抱えるであろう当事者本人に対する「知らされないでいる権利」についてのみ語っているが、その周囲の人々(親族や内縁者など)に対してはどうなのだろう。私は以前から次のように考えてきた。------(とくに養育義務を持つ)親は、子の身体・精神状態に対する「知っておく義務」があるのではないか。親が「知っておく義務」を怠ると、子が将来手に入れることのできる「選択する権利」が縮小されるのではないか。------ この考え方が正しいのかどうか自信はないのであるが、現時点ではこのように考えている。
この考え方を用いると、保険制度の再構築に関する糸口が掴める。一般に保険契約は個人と保険会社が二者間で結ぶものであるが、これを、複数の個人と保険会社との三者間契約を許可するよう制度を改編するのである。つまり、「知らされないでいる権利」をもつ個人と「知っておく義務」をもつ個人が連帯責任を負い、保険会社と契約する。そして、「知らされないでいる権利をもつ個人」と「知っておく義務をもつ個人」との間の、遺伝認識におけるズレについてだけは、不問に附す。そうすると保険金の受取人の問題(悪用対策)が残るが、紙面が足りないのでここで思考停止することにし、後日あらためて再考したい。
(註)高田氏の語る「知らないでいる権利」は「知」を放棄する権利を指していると思われるが、自発的/内在的な「知」まで権利放棄することはできないと私は考えるため、「知らされないでいる権利」と呼び換えた。
【第1回】ケアとトランスパーソナル心理学 諸富祥彦
上に書いた電話相談と関連するが、「クライエント自身の意識のありよう」と「セラピスト自身の意識のありよう」の関係について言及している部分に共感があった。当たり前だが、私の側に相談を受け入れるだけの精神的・時間的余裕がないと、カウンセリングは成立しないし、ケアにならない。いままでも、私のような素人がセラピスト/カウンセラーの真似事をしていてよいのかという自問があったが、これからも同様に悩み続けることになろう。今後深く勉強したいところである。
以上、連載のすべての回を通して、思うところがたくさんあった。規定字数では書ききれないため今回はこれで締め、別の機会にあらためたい。
2009-05-01 地域福祉論(広井良典 先生)