矢野 喜正

色覚問題研究グループぱすてる 運営人

 

私は先天色覚異常(1型2色覚)で、美大に進学し、デザイン関連の仕事を本業にしています。 私のような進路を選んだ先天色覚異常の当事者は、決して少なくないはずです。 しかし、美術やデザインのプロである当事者が「本当のこと」を言うのは、なかなか難しい状況にあります。 その理由のひとつは、日本の社会風土にあると思われます。 以下、先天色覚異常に関する社会制度上の問題の概略をご説明します。

 

先天色覚異常に関する社会問題は、これまで、(1) 障害観および遺伝観の再検討、(2) 就職・進学・資格取得時などにおける機会的障壁の解消、(3) 色彩情報の享受に際しての功利性の向上、という指向性の異なる当事者主張を伴って顕在化されてきました。 これらに関する近年の社会動向を見ますと、次のようなことが言えると思います。 (1) については、人権的配慮が用意される一方で、まだまだ、極めて現実的な評価が下される場面が多く残存しています。 (2) については、過去と比較すれば解消されてきているものの、雇用主や事業者のリスク回避傾向は変わらず、特定職種の欠格条項は固定化したままにあります。 (3) については、ビジネスの世界で功利主義が大きな説得力を持つため、急速に、しかし誤った方向に進展しています。 平たく言えば、(1) (2) は当事者だけに限定されたマイナーな問題として扱われ、(3) は当事者以外の者にとってもオイシイ話、つまり「儲け話」として扱われている、ということです。

 

(2) (3) それぞれの指向においては、一見矛盾したような当事者言説が展開されています。 たとえば、(2) については、当事者の障害程度は軽微であるとの言説が付随するのに対し、(3) については、生活上の支障や困難が強調されています。 この傾向にある限り、(2) の主張は社会から軽んじられ、(3) の主張が社会的関心を集め続けることになります。 とはいえ、(2) (3) に関する制度改善は、遅かれ早かれ進行していくでしょう。 これに対し、最後に残される問題が (1) なのです。

 

これまでの (2) (3) に関する社会制度的展開において、当事者言説は乱暴に扱われ、個々の当事者の感情は無視されてきました。 特にマスメディアは、非常に無責任です。 (2) (3) に付随する当事者言説は単純明快かつ大胆なため、大きな問題として扱います。 一方、(1) に関する問題は、とても繊細で扱いが難しく、その上、地味で人目を引かない問題なので、マスメディアは扱おうとしないのです。 こうして、個々の当事者が抱えている障害観や遺伝観は、メチャクチャに切り刻まれてきたわけです。

 

しかし、一見矛盾したような言説が展開されてきた (2) (3) それぞれの当事者指向ですが、その根底において、感じていること・考えていることは一緒です。 それは、既存の障害観や遺伝観を見直して欲しい、つまり (1) と同じことなのです。 しかし、ほとんどの当事者は、(1) について、自身の抱えている問題をうまく語ることができません。 そこで、ある当事者が (1) の問題を語らずに (2) (3) だけを語ろうとし、それをマスメディアが拾う、という図式が生まれます。 このようして、特定の当事者の「語り」そのものが他の多くの当事者の感情や「世界観」を傷つける、という構造が形成されたのです。

 

以上は、先天色覚異常に固有の問題ではなく、当事者性を取り扱う多くの状況に共通するデリケートな問題であると言ってもよいかもしれません。 以上のことを理解できない人が、安易に当事者問題を語ることは許されないだろうと、私は考えています。

 

以下、私がこのブログで使っている言葉について、簡単に註を加えておきます。

 

「先天色覚異常」は、以前には「色盲」「色弱」などと呼ばれるのが一般的でした。 しかし、「色盲」や「色弱」は2005年に医学用語から削除された用語であるため、今後は使わない方がよいだろうと考えています。 他方で、近年、マスメディアは「色覚障害」などを使いはじめていますし、また、一部の当事者が「P型色覚・D型色覚・・・」「色覚特性」「少数派色覚」などといった恣意的な造語を当てているケースも見かけます。 これらの呼称ないし表現の使われ方は、自然科学的に間違っています。 だけでなく、日本語の構造から見ても語義について曖昧であり、新たな誤解を生む原因となっており、多くの問題を発生させてもいます。 以上のことから、私は、現行の正式な医学用語である「先天色覚異常」という呼び方に統一しています。

 

なお、「異常」という言葉を避けた方がよいのではないかという意見もあります。 その感情は十分に理解できます。 しかし、先天色覚異常は、色覚についての "生理的な構造" の異常であるため、「異常」と呼ばれること自体は、科学的には妥当です。 たとえば、「近視」も "生理的な構造" の異常の一種であり、医学において「屈折異常」と呼ばれるものに含まれるわけですが、「近視を屈折異常と呼ぶな」という意見に出会うことはありません。 つまり、「『異常』という言葉を使うな」という当事者言説は、上述したように「障害観の再検討をしてほしい」という要請なのであって、「言葉の入れ替えをしてほしい」という意味ではないのです。 したがって、「色覚異常」という呼称を否定することは表面的な問題へのすり替えにしかならない、というのが私のスタンスです。 以上のように、言葉の問題ひとつとってみても、当事者は、社会と冷静につきあっていく方法を身につけなければならないのだろうと感じています。

 

 

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