社会制度上の問題としての「先天色覚異常」

先天色覚異常に関する社会問題は、これまで、(1)障害観および遺伝観の再検討、(2)就職・進学・資格取得時などにおける機会的障壁の解消、(3)色彩情報の享受に際しての功利性の向上、という指向性の異なる当事者主張を伴って顕在化されてきました。 これらの当事者指向をとりまく近年の社会動向を俯瞰してみたいと思います。

 

(1)については、人権的配慮が用意される一方で、まだ、極めて現実的な評価が下される場面が多く残存しています。 (2)については、過去と比較すれば解消されてきているものの、事業者のリスク回避傾向は変わらず、特定職種の欠格条項は固定化したままにあります。 (1)(2)が大きな進展を見ないのに対し、(3)については、社会制度の急進が見られます。 (3)のみが進行する理由は、ビジネス分野において、功利主義が大きな説得力を持つためです。 平たく言えば、(1)(2)は当事者だけに限定されたマイナーな問題として扱われ、(3)は当事者以外の者にとってもオイシイ話、つまり「儲け話」として扱われている、ということです。

 

(2)(3)それぞれの指向においては、一見矛盾したような当事者言説が展開されています。 たとえば、(2)については、当事者の障害程度は軽微であるとの言説が付随するのに対し、(3)については、生活上の支障や困難が強調されています。 この傾向にある限り、(2)の主張は社会から軽んじられ、(3)の主張が社会的関心を集め続けることになります。 とはいえ、(2)(3)に関する制度改善は、遅かれ早かれ進行していくでしょう。 それに対して、最後に残される問題が(1)なのです。

 

これまでの(2)(3)に関する社会制度的展開において、当事者言説は乱暴に扱われ、個々の当事者の感情は無視されてきました。 特にマスメディアは、非常に無責任です。 (2)(3)に付随する当事者言説は単純明快かつ大胆なため、大きな問題として扱います。 一方、(1)に関する問題は、とても繊細で扱いが難しく、その上、地味で人目を引かない問題なので、マスメディアは扱おうとしないのです。 こうして、個々の当事者が抱えている障害観や遺伝観は、メチャクチャに切り刻まれてきたわけです。

 

しかし、一見矛盾したような言説が展開されてきた(2)(3)それぞれの当事者指向ですが、その根底において、感じていること・考えていることは一緒です。 それは、既存の障害観や遺伝観を見直して欲しい、つまり(1)と同じことなのです。 しかし、ほとんどの当事者は、(1)について、自身の抱えている問題をうまく語ることができません。 そこで、ある当事者が(1)の問題を語らずに(2)(3)だけを語ろうとし、それをマスメディアが拾う、という図式が生まれます。 こうして、特定の当事者の「語り」そのものが他の多くの当事者の感情や「世界観」を傷つける、という構造が形成されたのです。

 

以上は、先天色覚異常に固有の問題ではなく、当事者性を取り扱う多くの状況に共通するデリケートな問題であると言ってもよいかもしれません。 以上のことを理解できない人が、安易に当事者問題を語ることは許されないだろうと、私は考えています。