「人工の生物/論点拾う対話を急ぎたい」
尾関章(おぜきあきら/編集委員)
人工生物に限りなく近い細菌をつくった、と米国の民間研究所のチームが発表したのは約3カ月前のことだ。このニュースをめぐって、もう少し議論があってよいと思うのだが、それほどの広がりを見せていない。
DNAの断片を合成してつなげ、生命体一つ分のゲノム(全遺伝情報)をつくる。これを、器となる細菌に入れ、もともとあったゲノムの代わりに働かせて増殖させたというのだ。
チームを率いるのは、クレイグ・ベンター博士。人のゲノムの解読で、公的な研究陣営と激しく競い合ったベンチャー界の大立者だ。自伝「ヒトゲノムを解読した男」(野中香方子訳、化学同人)で、ゲノムの次は生物の合成だと宣言していた。
人工生物は、最近盛んになった合成生物学の究極の産物といえる。それは薬づくりや環境、エネルギー問題の解決などに役立つかもしれない。たとえば、燃料を生産する生物などだ。
だが、倫理、安全面では遺伝子組み換えと同様、懸念材料がある。兵器に使われないか。健康を脅かさないか。生態系を損なわないか。進めるにしてもブレーキを踏みながらだろう。
それだけではない。生物を一から組み立てるというのは、すでにある生物に取り込みたい遺伝子を入れる組み換えとは次元が異なる。問題も奥深い。
ベンター流は、その組み立ての第一歩として、生命の存続に必要な最小の遺伝子セットを探そうとしている。あとは目的に応じていろいろつけ加えよう、という戦略だ。
「そこには、生物は進化の中で不要なものまで抱え込んできたという生命観がある。川の蛇行をまっすぐにするように、生物のしくみも人に都合よく単純にできるという考え方だ」と東京大学先端科学技術研究センター特任教授の米本昌平さん(科学論)は言う。
この生命観は、自然科学にとどまらず人文系の世界にも衝撃を与え、論争を呼ぶだろう。
注目すべきは、ベンター博士らが、こうした根源的な生命探求を自分たちの手でやってのけようとしていることだ。実用の枝葉を広げる化学の根っこを、特許などを通じて一民間チームが押さえるという未来図も見えてくる。基本ソフトの開発企業がIT社会で巨大な力をもつのと似た状況が現れないか。知的財産権論議の火種もはらむ。
英国では6月、関連分野の研究予算の配分を担う公的機関が「合成生物学対話」と題する報告書をまとめた。討論集会や専門家からの意見聴取をもとに、この研究に対する期待と心配をあぶり出したもので、科学者の知的情熱から企業の投資意欲まで幅広く俎上に載せている。
新登場の研究をまえに最初から推進派と反対派に分かれるのではなく、まずは論点を拾い尽くす。そこから適切な向き合い方を探る。そんな科学対話が日本でも急がれてはいまいか。
(朝日新聞 2010年8月12日 朝刊10面「記者有論」欄)