潘基文(パンギムン)国連事務総長が、原水禁への参加のために広島に来て、平和記念式典にも参列されたそうだ。
潘基文氏の原水禁参加や式典参列の是非については、ここでは問題にしない。私が問題にしたいのは、報道だ。今回、ほとんどの日本のマスメディアは、「世界平和のために核兵器の廃絶を」という論調をとっている。美しいフレーズではあるが、私は違和感をもつのだ。
これがもし、「戦争をなくすために核兵器の廃絶を」というのであれば、一応、話は通る。なぜなら、「戦争」と「核兵器」との間には、明確な関係があるからだ。しかし、「平和」と「核兵器」とは、同じ次元の話ではない。「平和」と「核兵器」の関係を語る前に、まず「平和」の定義をしなければならない。「平和」の定義なく、より低次元な「核兵器」と「平和」を関係づけるのは、幼稚だ。
もちろん、核兵器はないほうがいいに決まってる(と私は思っている)。しかし、核兵器があってもなくても、「平和」にはほど遠い。「平和のために核兵器廃絶を」は、美しいフレーズではあるが、言葉が軽すぎる。
一体、「平和」とは何なのだ?
「戦争」がなければ「平和」であると言えるのか?
それは違う。
ためしに広辞苑を引いてみる。「やすらかにやわらぐこと」「おだやかで変わりのないこと」「戦争がなくて世が安穏であること」などとある。安穏か、これは難しい。安穏であろうとするなら、極端な格差も貧困も、虚勢も嫉妬も、絶望も煩悶も避けたい。
うーん、「平和」の実現は難しいぞ。
マスメディアの方々に一言。潘基文氏は「国連」の事務総長なんだから、記事を書く前に『永遠平和のために』くらい読んでみてほしい。いまさらカントか、じゃなくて。国連の背景を知っていれば、「世界平和のために核兵器の廃絶を」みたいな軽い台詞は言えないって話。国連事務総長来日と広島原爆投下日に絡めて美しいことを言ってみました、みたいなのは正直ウンザリです。
いつものことだけれど、報道ってホント適当だな、と思うわけです。