「学問の言葉」と「当事者の言葉」

ついさきほど、ある企業の募集要項の欄に「不可とする条件:色弱」という記載があるのを見かけました。といっても、たいして驚く話ではありません。まあなんというか、こういうのはよくあります。

 「色弱」は昔の診断名で、いまで言う「異常3色覚」の意味です。一方「色盲」は、現在は「2色覚」と呼びます。

で、この企業の面接にでも行って、「私は色盲なのでかまいませんよね?」って言ったら怒られるだろうなあ(笑

 

さて、ここから別の話。

某団体は、先天色覚異常の当事者のことを「色弱者」と総称しています。そう呼びたいという気持ちは理解できなくもないのですが、「色弱者」と総称してしまうと、上の例のようなことが起こります。これは故 深見嘉一郎 先生から厳しく言われたことなのですけれども、ひとつの言葉に複数の意味を与えてはいけないのです。

眼科学は、私たち色覚異常の人間に、多くの示唆を与えてくれます。色覚異常の当事者たちには、眼科学を勉強し、冷静に我が身を認識できるようになっておく必要があります。

他方、「当事者」の言葉に惑わされている人々に対して、ひとこと。正確に自己認識できていない「当事者」の言葉を、信用してはなりません。自己認識できていない「当事者」は、自分の体験・経験を語っているように見えても、そこに個人的な意見を付け加えています。本来、経験談と意見表明は別のものであるはずです。経験談の中に恣意的な意見を織り交ぜるというのは、アンフェアな行為です。

例えるなら「南京大虐殺は中国の捏造である」と言って憚らない旧日帝軍人と似たようなものです。