2011年

12月

28日

社会制度上の問題としての「先天色覚異常」

先天色覚異常に関する社会問題は、これまで、(1)障害観および遺伝観の再検討、(2)就職・進学・資格取得時などにおける機会的障壁の解消、(3)色彩情報の享受に際しての功利性の向上、という指向性の異なる当事者主張を伴って顕在化されてきました。 これらの当事者指向をとりまく近年の社会動向を俯瞰してみたいと思います。

 

(1)については、人権的配慮が用意される一方で、まだ、極めて現実的な評価が下される場面が多く残存しています。 (2)については、過去と比較すれば解消されてきているものの、事業者のリスク回避傾向は変わらず、特定職種の欠格条項は固定化したままにあります。 (1)(2)が大きな進展を見ないのに対し、(3)については、社会制度の急進が見られます。 (3)のみが進行する理由は、ビジネス分野において、功利主義が大きな説得力を持つためです。 平たく言えば、(1)(2)は当事者だけに限定されたマイナーな問題として扱われ、(3)は当事者以外の者にとってもオイシイ話、つまり「儲け話」として扱われている、ということです。

 

(2)(3)それぞれの指向においては、一見矛盾したような当事者言説が展開されています。 たとえば、(2)については、当事者の障害程度は軽微であるとの言説が付随するのに対し、(3)については、生活上の支障や困難が強調されています。 この傾向にある限り、(2)の主張は社会から軽んじられ、(3)の主張が社会的関心を集め続けることになります。 とはいえ、(2)(3)に関する制度改善は、遅かれ早かれ進行していくでしょう。 それに対して、最後に残される問題が(1)なのです。

 

これまでの(2)(3)に関する社会制度的展開において、当事者言説は乱暴に扱われ、個々の当事者の感情は無視されてきました。 特にマスメディアは、非常に無責任です。 (2)(3)に付随する当事者言説は単純明快かつ大胆なため、大きな問題として扱います。 一方、(1)に関する問題は、とても繊細で扱いが難しく、その上、地味で人目を引かない問題なので、マスメディアは扱おうとしないのです。 こうして、個々の当事者が抱えている障害観や遺伝観は、メチャクチャに切り刻まれてきたわけです。

 

しかし、一見矛盾したような言説が展開されてきた(2)(3)それぞれの当事者指向ですが、その根底において、感じていること・考えていることは一緒です。 それは、既存の障害観や遺伝観を見直して欲しい、つまり(1)と同じことなのです。 しかし、ほとんどの当事者は、(1)について、自身の抱えている問題をうまく語ることができません。 そこで、ある当事者が(1)の問題を語らずに(2)(3)だけを語ろうとし、それをマスメディアが拾う、という図式が生まれます。 こうして、特定の当事者の「語り」そのものが他の多くの当事者の感情や「世界観」を傷つける、という構造が形成されたのです。

 

以上は、先天色覚異常に固有の問題ではなく、当事者性を取り扱う多くの状況に共通するデリケートな問題であると言ってもよいかもしれません。 以上のことを理解できない人が、安易に当事者問題を語ることは許されないだろうと、私は考えています。

 

 

 

2010年

12月

07日

バリアフリー・UDの行方について

きょう、某大学某学科で行ったレクチャーの録音を聞きながら帰宅。 ちょっと言葉が足りなかった。 反省。 以下、思考メモ。

いわゆる「ユニバーサルデザイン」というものが、今後どこへ向かうのかを考える。

バリアフリーを突き詰めていくと、諸制度は、人間の無自覚を許容する方向に進むと思われる。 となると、無自覚に日常を過してもよいということになる訳だが、果たして、本当にそれでよいのか。

人間が社会生活を営む以上、身の回りのすべての事柄について無自覚でいてよい筈はない。 無自覚が許容されるのは、何か特別な事情がある場合だけだろうと思われる。 その「特別な事情」に、すべての「障害」が含まれるとみるか、それとも「事情」の文脈を精査することになるか。 そこが分かれ目だ。 私は、文脈を抜きにしてバリアフリーはあり得ないと考える。 極端なことを言えば、「障害」よりも優先される事情は色々とあり得る。

各々の文脈を冷静に捉えられていないバリアフリーや「ユニバーサルデザイン」には、どこかに何かの「力」が加えられている可能性が大きい。 その「力」が公共性を害さないか、私はそのことが気がかりでいる。

 

 

 

2010年

9月

26日

先天色覚異常当事者の言説にみる当事者の社会的位相とその運動の変遷

2010年9月26日、障害学会の発表原稿です。

出典:障害学会『障害学会・第7回(駒場)大会 資料集』(東京)2010

大会プログラムのホームページから発表資料をダウンロードすることができます。

私は矢野喜正(やのよしまさ)と申します。 色覚異常の当事者団体の運営をしております。また、千葉大の大学院で制度研究をしております。 きょうの報告テーマは「先天色覚異常当事者の言説にみる当事者の社会的位相とその運動の変遷」です。 どうぞよろしくお願いいたします。

これより報告を始めます。 研究動機、当事者問題の歴史的変遷、当事者問題の行方、の順にご説明いたします。

まず、研究動機です。

はじめに、眼科学の基礎的な事柄について説明いたします。

色覚についての医学的な分類です。 人間の色覚は正常色覚と色覚異常に分かれ、色覚異常は先天と後天に分かれます。 そして先天色覚異常は、1色覚、2色覚、異常3色覚のみっつに分かれます。 昔の診断名では、それぞれ、全色盲、色盲、色弱と呼ばれていました。

医学では、先天色覚異常の形質を持った人のことを「先天色覚異常者」と呼びます。 一方、きょう用います「先天色覚異常当事者」という言葉は、先天色覚異常にまつわる諸問題の当事者を指しています。 この中には、先天色覚異常でない人々、たとえば遺伝的保因者なども含まれる可能性があるということです。

なお、当事者の中には「異常」という表現を好まない人が多いようです。 躊躇はありますけれども、きょうは学術的に正確な表現をということで、医学用語を使わせていただきます。

先天色覚異常は遺伝的要因によって発現する形質で、日本での発現頻度は、男性の4.50%、女性の0.156%です。 そのうちおよそ6割が異常3色覚者で、4割が2色覚者です。 1色覚者について確定的なデータはありませんが、1万人から5万人に一人程度であろうと言われています。 また、遺伝的保因者は女性のおよそ9%と推定されています。 したがいまして、先天色覚異常者が約290万人、遺伝的保因者が580万人と推計されます。

このように多くの当事者が存在するにもかかわらず、これまで、先天色覚異常にまつわる社会問題が大きく扱われることはありませんでした。 しかし、近年になって、いわゆるユニバーサルデザインと呼ばれる事業に積極的に関わろうとする当事者が現れ、マスメディアに取り上げられる機会も多くなり、状況が変わりつつあります。

私の研究動機はこの文脈の読解にあります。 そして今後、当事者をめぐる諸問題はどのような方向に向かうのか、もし軌道修正が必要であるならば、当事者らはどのような方向を見据えるべきなのかを考察します。 そして本報告が、現代の日本社会における「障害」ないし「障害者」を読解するための素材の一部となることを希望するものです。 みなさまのご研究との差異を相対的に捉えながらお聞きいただければと存じます。

続いて、当事者問題の歴史的変遷です。

先天色覚異常にまつわる社会問題が、近年になるまで大きく取り上げられなかった理由には、おもに、次の4点が考えられます。

1)先天色覚異常は感覚器の比較的軽度な先天的インペアメントであるため、色覚検査を受けない限り、周囲からの指摘がほとんどありません。 ですので、インペアメントの自覚を持ちにくいという特徴があります。

2)色彩の扱いについていくらか経験を積みますと、困難に直面する機会がかなり減ります。 したがいまして、状況に適応する努力を行えば、個々の当事者にとっては大きな問題でなくなるという側面があります。 たとえば私は2色覚者ですが、美術大学を出て、デザインの仕事をしています。 まったく自慢できることではありませんけれども、それなりの状況適応が可能だということの証明にはなろうかと思います。

3)現在においても、就職や資格取得などに欠格条項が設けられ、当事者たちは不利益を実感しています。 そのために、インペアメントを隠し、不利を回避しようとする傾向があります。 実際のところ、インペアメントが外見に現れないため、慎重に生活していれば周囲に気づかれることはありません。 こういったことが、問題の存在そのものを隠蔽することに繋がっていったと考えられます。

4)日本には、遺伝に対して潔癖すぎるとも言える、感情的な傾向があるようです。 遺伝的保因者は、世間から誤解を受け、婚姻や出産などの際に大きな緊張を強いられ、精神的苦痛を実感してきました。 そうした苦痛を少しでも和らげたいと願う自然な感情がはたらいて、問題の意識的な忘却が行われたという側面があります。

この中で、とくに難しいのが4つ目の問題であろうと、私は考えます。 この遺伝の問題は、当事者の位相を読み解くにあたって、忘れてはならない視点であろうと思います。

以上のような背景がありつつも、先ほど述べましたように、近年になりまして、社会状況が転換を迎えています。 続いて、歴史的経緯を大まかに追うことといたします。

19世紀後半に、ヨーロッパ各地で、乗務員の色覚異常が原因であろうと考えられる列車や船舶の事故が重なります。 それを契機に、各国で乗務員の色覚検査が規定されていき、日本でも1879年から、鉄道員と船員を対象とした色覚検査が始められました。 日露戦争後には、陸軍、海軍ともに、色覚異常者の採用制限を始めます。 このようにして、近代日本においては、特定の職種の人材選定を目的として、スクリーニングが制度化されていきました。 当時の記録には、当事者の悲嘆の声が残っています。 戦争で活躍できないということにアイデンティティの喪失を感じたのだと考えられます。

昭和初期より、効果のない「治療法」がいくつも生み出されては消えていきました。 アジア太平洋戦争敗戦後、さらに怪しい「治療法」の発明が活発になります。 たとえば、1960年代には、こめかみに電気刺激をあてることによって色覚異常が「治る」と騙った高額な装置が売り出され、それを購入してしまう当事者が続出し、大問題となりました。 また、同様の原理を用いた「クリニック」が各地に開設され、90年代前半頃まで、詐欺行為が続いていました。 現在でも、「治療」を騙った鍼灸院がわずかに報告されていますし、色覚異常が「矯正できる」と騙ったメガネが高額で販売されています。 こういった詐欺行為の効果がクリニックや、あるいは装置やメガネの製造元らによって検証される際には、「治った」と訴える当事者の声が意図的に引用されるわけですが、そういった主観的な言説が多くの眼科医から疑われ、当事者の言葉は信用を失っていくこととなりました。

そのような状況にあって、「治療」「矯正」の真贋を見極めようと、医学に寄り添う決心を固めた当事者たちが現れます。 この当事者たちは、80年代から組織化を始め、眼科医らの援護を受けて、社会適応の方策を探り始めました。 しかし、運動体としての性格は強くなく、当事者のアイデンティティの構築を共同作業として行う、といった様相をもっています。

追って90年代から目立ちはじめた当事者の主張は、進学、就職、資格取得などの機会制限に対する異議申し立てでした。 この当事者らは団体を組織し、運動を始めますが、その論拠は、先天色覚異常者自身による「日常生活に不便を感じていない」という言説にありました。 この運動は、一定の成果を出しつつも、迷走を始めます。 色覚にまつわる制度のすべてを「差別」であるとして世に訴えはじめるわけですが、その矛先は医学に対しても向けられ、たとえば「色覚異常という言葉を使ってはならない」、「色覚異常という診断を下してはならない」、「精度の高い検査器具を使用してはならない」、「色覚検査そのものをこの世からなくすべきである」などと訴える当事者が現れました。 これを受けて眼科学は、「日常に不便を感じていない」という主張を疑い、当事者に対する信用度を下げていきました。

2000年以降になりますと、反対に、「日常的に困難を感じる」と語って、先天色覚異常者を福祉サービスの対象として取り入れるよう要求する当事者が現れました。 いわゆるユニバーサルデザインと呼ばれる動向への相乗りを狙ったものです。 この運動を率いる当事者らは、社会状況の転換を待ち切れず、自らソーシャルビジネスをはじめます。 そうなりますと、営利を求める都合から、どうしても、インペアメントを誇張して語る傾向になっていきます。 また、営業成果の顕在化を図るため、独自の造語の使用を営業先に要求し、認証マークの添付なども要求し始めました。 この運動での、インペアメントの誇張と医学用語の否定は、眼科医の側にあった不信感をさらに募らせることとなりました。

いま述べましたような経緯をふまえ、当事者運動の位相の整理を試みます。 私は、当事者運動の類型を、時代的経緯に合わせて、みっつに分類しました。 社会適応型、欠格条項撤廃要求型、情報保証訴求型です。 余談ですが、私は情報保証のショウの字を「ゴンベンに正しい」の「証」の字にしています。 情報保証は Information Assurance の翻訳語ですので、そうした方が相応しいと考えるためです。 話を戻しまして、以下に、それぞれの類型の特徴を述べます。

社会適応型運動の当事者属性は、先天色覚異常者、遺伝的保因者、その家族です。 医学的思考を基本に据えつつ、客観的な自己認識を試みようとしています。 あまりインペアメントを顕示しようとはせず、制度要求もそれほど激しくはありません。 色覚検査や欠格条項に対しては、科学的根拠がはっきりしている場合に限って、容認の態度をとるケースがあります。 営利性は低く、旧来のいわゆるボランティア活動の姿に近いものがあります。

欠格条項撤廃要求型運動の当事者属性は、先天色覚異常者に限定されており、中でも、比較的軽度のインペアメントをもつ者が多いようです。 医学的思考に対する抵抗感は大きく、インペアメントの自覚や顕示性は低いように見受けられます。 制度要求は欠格条項の問題に集約され、色覚検査は欠格条項存続の手段とみなして、実施反対の態度をとっています。 行動力があり、いわゆる一点突破型運動と呼ばれるものに近い様子があります。

情報保証訴求型運動の当事者属性も先天色覚異常者に限定されていますが、比較的強度のインペアメントをもつ者が多いようです。 このタイプの運動にまつわる言説を拾いますと、一見、合理的思考を持っているようにも見えるのですが、医学用語を一切認めないといったことなどから、医学的思考に対する抵抗感が大きいことが読み取れます。 また、インペアメントの顕示性は非常に高いのですが、誇張が見られるため、自覚の程度はよくわかりません。 制度要求は情報保証の問題に集約され、非常に行動力があります。 営利性がとても強く、新自由主義的な指向をもっているようにも見受けられます。

以上のように類型化した上で、相違点の整理を試み、今後の当事者問題の行方を考察してみたいと思います。

いま述べましたみっつの類型は、それぞれに矛盾点はありますけれども、当事者自身の視点からみれば、身体感覚と感情の置き場所を重ね合わせようという点で一致しています。 先ほど、インペアメントの自覚が難しいというところに問題の特徴があると述べました通り、当事者の抱える感情や意識は、身体感覚と分離した状態が出発点となっているわけです。 そこで、肉体と精神を、分離された状態から統合された状態へとシフトしたいという動機が共有されているようにみえます。

そこで、肉体と精神を統合させようというときに何を指向するかという点で、当事者運動の方向性が分かれていきます。 中でも、欠格条項タイプと情報保証タイプの主張は、明らかに矛盾しています。 欠格条項タイプは「生活上の不都合はない」と言い、情報保証タイプは「生活上の不便が多い」と言うわけです。 両者とも、身体感覚の個人差や、当事者の多様性についてはあまり触れず、主観的な身体感覚だけを拠り所にして語ろうとする傾向がみえます。 もっとも、主観的に捉えなければやっていけないほど、当事者が苦痛を感じているのだと考えることもできます。

このようにして、欠格条項タイプや情報保証タイプの当事者は、医学的な思考を受け容れられないまま運動を続けてきました。 それぞれの立場に立って言えば、眼科学は当事者の役に立たない学問であるということになるでしょう。 しかし私は、当事者と医学が良好な関係を構築した方がよいのではないかと考えます。 このことが、今後の課題のひとつになると思います。

しかし、当事者が医学を学べばよいという話では終わりません。 医学が当事者の方向を向いていないという問題が残っています。 これについて、社会適応タイプの当事者は、たとえば、眼科学会などの場に出て、医学の側に対して当事者像の修正を求めつつ、自身のインペアメントと向き合おうとしていますし、眼科医たちも当事者の意見に耳を傾けようという努力を始めています。 このように、当事者と医学とが対話を続けていくことが今後ますます重要になっていくであろうと思います。

最後にもうひとつ課題を挙げます。 これまで、欠格条項タイプや情報保証タイプの運動は、遺伝的保因者の立場を念頭においてきた様子があまりありません。 たとえば、情報保証タイプの運動では、私企業に対して、商品に「認証マーク」を貼るよう求めているわけですが、この「認証マーク」を遺伝的保因者たちが目にして、大きく傷ついているという実態があります。 また、お舅さんやお姑さんがお嫁さんを罵る、ですとか、先天色覚異常者が遺伝的保因者である親を恨む、ほとんどの場合は息子が母親を、ということになりますが、そういった肉親に対する怨恨が当事者の言説に現れ、この問題を一層深刻にする要因となってきました。 こういったことから、当事者の枠組みを確認し直す必要があるのではないかと私は考えます。 遺伝的保因者たちは、家庭内で孤立し、日々不安を抱えながら暮らしています。 このことを大きな社会問題であると捉え、当事者の全体像を再構築することが重要な課題になろうと考えております。

以上で報告を終わります。ご清聴どうもありがとうございました。

 

 

 

 

2004年

3月

19日

歩行者用LED信号器

交通信号器の設置基準は法律で定められていて、日本国中どこへいっても同じ信号器、かと思ったら、違うのです。設置基準は全国一律なのですが、基準の範囲内であればいろいろと融通が利きまして、都道府県ごとに特色があります。

LED信号器の試験設置は、四国(徳島・香川あたり)がもっとも早かったのではないかと言われています。たぶん、5〜6年くらい前にはもう町なかに存在していたはずです。関東では、国会議事堂の近く、祝田橋の交差点に設置されたLED信号器が、たしか4〜5年前だったかと記憶しています。交差点に設置された4つのLED信号器にそれぞれ微妙な性能の違いがあって、実験的な設置だったということがよくわかります。

警視庁(つまり東京都)が自動車用LED信号器の正式採用を決めたのが去年です。しかし、先天色覚異常者にとって必ずしも見やすいとは言えなかったため、設置に「待った」がかかりました。

歩行者用LED信号器については瞬間の判断が要求されないので、それほど問題がないと想像していたのですが、先天色覚異常ではなく、弱視・視野狭窄など、いわゆるロービジョンの方々に見辛さがあるとのことでした。

 

2004年

3月

18日

「自閉隊」

石破防衛庁長官が問題発言・・・というより、あきらかな差別発言をしました。自民党議員のパーティで「自衛隊は今まで、揶揄的に『自閉隊』と言われていた」「自閉症の子供の自閉と書いて自閉隊。分かってくれなくたっていいんだ、自分たちがやればいいんだということで、積極的にPRしてこなかったかも知れない」などと語ったのだそうです。

自閉症の方々は「分かってくれなくたっていい」という意識で生きているわけではありません。むしろ「分かってほしい」という感情のほうが強いかもしれません。こういった自閉症に対する誤解が、自閉症をとりまく方々みんなを傷つけてしまいます。詳しくご存じない方は、参考に、『あたらしい自閉症の手引き』や、映画『エイブル』など、ぜひご覧になってみてください。

ところで、「色覚異常」という言葉も、よく似たような誤用に出会います。「ものの分別のわからない人」を例えて「君のものの見かたは色盲的になっているぞ」などというような使われ方をします。エッセイや小説などでも、よく誤った使われ方をしています。慣用表現には、くれぐれも、どうぞご注意くださいね。

2004年

3月

11日

用語について、雑感。

6日の朝日新聞朝刊「私の視点」欄に「『無職』という呼称をやめましょう」という内容の意見がありました。それに対して、きょうの朝刊「声」欄に「どうせみんないつかは無職になるんだから『無職』でいいじゃないか」という意見。ともに60代とおぼしき男性からでした。私からしたら、慣用表現ならお好きな呼び方でどうぞ、という感覚です。しかし、客観性が問われる場(たとえば学会など)では、裏付けのある言葉(職業についてであれば法律用語)を使わなければならないと思います。

色覚に関する用語についても、いろいろな議論があります。もともと医学用語として存在する「異常」「色盲」「色弱」などということばに対して違和感を抱く方々が、たくさんいらっしゃいます。負のイメージが大きいからです(各種の当事者団体のみなさんも「異常」という表現は、おおむね避けているようです)。加えて「色盲」は、「白黒の世界しか見えてないんでしょ?」という誤解を生じさせています。しかし、医学的に「色盲」と診断された方であっても色彩はおよそ把握でき、それなりに多彩に感じ取っています。ですので、先天色覚異常者の中には「盲」の字をつけるのをやめてほしい、という方がいらっしゃいます。これらの医学用語を回避するために、いろいろな新語が考案され、すでに使われはじめています。

たとえば、「色覚障害」は、おもにマスコミが用いています。もう数年前から使われているようですので、新聞やTV・ラジオなどで接した方もいらっしゃることでしょう。先天色覚異常のひとは、たしかに、色覚にインペアメントを持っています。ですので、この呼び方は間違っているわけではありません。しかし、ほとんどの先天色覚異常者はインペアメントの自覚がないまま暮らしているという実態があって、自身の色覚を「障害」と決めつけられることに対して抵抗感があるようです。また、医学的な表現としての「色覚異常」と「色覚障害」は、同義ではありません。「色覚異常」を「色覚障害」へ呼び替えようとした場合、学術用語の誤用ということになるでしょう。

ある医師によって発明されたのが「色覚特性」という表現です。「色覚異常はいわば個性のひとつであって、世界の人口と同じだけ存在する色覚の種類の中で類型化できない色覚のひとつなのだ」という考えです。なるほど、とは思います。ですがこれも、医学的な表現としての「色覚異常」と「色覚特性」が同義でないため、うまくありません。たとえば「正常色覚者の色覚特性は・・・」というような使い方もできるからです。結果、「色覚特性」は、科学的な表現を必要としないひとたちに好まれ、ごく一部のみで恣意的に使われています。

また、色覚異常の遺伝法則を説明する時によく使われる「伴性劣性遺伝」という医学用語も、やはり嫌われることがあります。どうしても「劣っている」というイメージがついてくるからです。前出のように、ほとんどの先天色覚異常者は、色覚について劣等感なく暮らしているという実態がありますので、自身の遺伝を「劣性」と表現されることにおおきな違和感を持つのです。加えて、遺伝の因子を持っている親からしてみても、自身の遺伝子を「劣性」と呼ばれることにかなりな抵抗があります。「劣勢」とも似ていますので、なおさらですね。ちなみに、先天色覚異常の遺伝について「伴性劣性遺伝」と呼ぶのは間違いで、正しくは「X連鎖性遺伝」「X染色体連鎖性遺伝」「X連鎖性劣性遺伝」などと表現するのだそうです。

 

閑話休題

 

こうして、いろいろな用語の問題に接してしまうと、もう、なにを使ったらよいのかわからなくなってしまいます。困った時は原点に帰れというわけで、私の場合、色覚については、医学用語をそのまま使うことにしています。感情的にどうも納得できないというデメリットは残ってしまうのですが、医学用語を用いたほうが誤解を生じにくいというメリットは捨てがたいものです。また、医学用語は、他国語(特に米語)との相互翻訳性について熟慮されています。ですので、客観性や普遍性を意識した場合は、医学・生理学的に正しいとされる表現を使うべきでしょう。

なお、現在、日本眼科学会が色覚関連用語の検討をしていて、近いうちに改訂されるようです。色覚に関する用語だけでなく眼科学全般で大きな改定作業をしているらしいので、そっくりまるごと日本医学会の定める用語に反映されることでしょう。私は、眼科学用語が変更されたら、このブログでの表現もそれに合わせます。そして、いまのところは現行の医学用語でまいります。どうぞご理解ください。