2011年
4月
28日
木
矢野喜正. 2011.「教科書編集を支える立場から - 失敗を認めない制度、間違いを許容する教育」
全国の学校の先生方に向けて発行されている定期刊行物『教室の窓』に、小論を寄稿しました。 現在、WEBで読めるようになっています。 ご興味ございましたら、下記のリンク先の資料をご覧ください。
『教室の窓 - 中学校理科 - 2011年5月 - 臨時増刊号 - 平成24年度用新教科書特集』「教科書編集を支える立場から - 失敗を認めない制度、間違いを許容する教育」東京書籍
私がこのコラムで述べたかったのは、近年の「ユニバーサルデザイン」と呼ばれる社会動向が、その行き先を見失ってしまっているということです。 とくに、先天色覚異常の問題は、いわゆる「ユニバーサルデザイン」で解決できるほど簡単な問題ではありません。
以下別件。 「ユニバーサルデザイン」は、市場経済と抱き合わせになったとき、非常に大きな権力を手に入れます。 そこでは「困っている人がいるから改善せよ」という、キレイゴトが語られますが、それを裏付けるものは提示されません(あるいは、提示されているものが『美しい嘘』によって構築されています)。
そもそも「ユニバーサルデザイン」という思想は、市場経済と関わりのないところでは成立しないものなのかもしれません。 もしそうであるなら、「ユニバーサルデザイン」は、キレイゴトを使った押し売りである、ということになってしまうでしょう。
そうでないことを祈りながら、しかし怪しい「ユニバーサルデザイン」が巷に蔓延していることを、私は悲しく思っています。
2010年
7月
29日
木
色覚検査と「差別」について
【質問】 色覚異常が差別であるととの認識が広まりつつあります。色覚検査と言えば石原式でしょう! そもそもあの本で正確な色覚が判断できるのでしょう か? シンプルに信号が見えるかとか現実的な試験のほうがよいと思います。色覚異常者が就職や進学で道を絶たれることはあってはなりません。そもそもなぜ 石原式が基準なんだ?(Yahoo知恵袋より)
【回答】 これはご質問ではなく、ご意見ですね。このご質問には複数のご意見が含まれていますので、それぞれ分離させて回答させていただきます。
(1)色覚異常は差別か
色覚異常は身体の特性であって、差別ではありません。したがって、健康診断によって色覚異常を発見することも、差別ではありません。なお、色覚異常という身体特性が社会的な差別に繋がるような現象を指して、その社会現象に対して「差別である」と言うことはできるでしょう。
(2)色覚検査はどのような方法であるべきか
検査は目的にあった方法で行うべきです。色覚異常の発見が目的であるなら医学的な方法で行うべきで、仮性同色表を用いることは間違っていません。しかし、進学や就職に関しては支障の有無の発見が目的でありますから、仮性同色表の結果 "だけ" をもって判断するのは間違いであるということになるでしょう。
(3)色覚検査の標準的な方法が石原表であるのはなぜか
石原表が高精度であることが国際的にも評価されており、かつ、使用方法が簡便であるからです。
(4)石原表で正確に色覚が診断できるか
色覚異常の確定診断は、石原表だけでなく、アノマロスコープを含めた複数の検査の結果をもって総合的に判断しなければならないとされています。
(5)色覚異常者が就職や進学の際に道を絶たれることは許されないのではないか
色覚異常には先天色覚異常と後天色覚異常がありますが、いずれも個人差が大きいものです。そのすべてをひっくるめた「色覚異常者」というカテゴリーに対して制度の是非を語るのは無理があるでしょう。個人個人の能力を見極めた上で進路適性に関する制度を考察するべきだと思います。
2010年
7月
29日
木
問題:教育現場に何が起こるかを考えよ。
小学校教科書の検定前後の意匠差を見比べるため、教科書図書館に行ってきました。一応全社のものを見ましたが、D日本図書・K林館・K育出版・G校図書・M村図書出版などの教科書には大きな疑問を感じました。
私が見たところ、多面的な見地から問題が発見されました。いまそのすべてを書く余裕がないので表面的な問題だけにとどめます。
たとえば、意匠の問題があります。工夫した痕跡があるにも関わらず、意匠に失敗しているものが多く見受けられました。いや、努力の跡が残っているからこそ痛々しいと言うべきでしょうか。優れた意匠というものは、出来上がりに無理がなく、作り手の意図を感じさせないもの。洗練されたデザインというものは、どこを工夫したのかすら分からないものなのです。まあ、これについて文句を言うのはやめておきましょう。センスのない人間に言ってもどうせ分からない話ですし。
上記各社の教科書の一番大きな問題は、「カラーユニバーサルデザイン」という高圧的な「思想」の足跡が記されているということです。知識のない人々による偏向した「思想」の表明は、非常に罪深いものです。とくにD日本図書とK林館は酷いものでした。この2社は目立つように裏表紙(表4)に「認証マーク」を入れていましたが、まったく無知にも程があります。無知というより、馬鹿というべきでしょうか。
担当の編集者たちは「よいこと」をやっているつもりなのでしょうね。しかしこういった表記を見た人、とくに親は、大変に傷つくのですよ。まるで無神経すぎる。もし「よいこと」をやっているつもりがあるのでしたら、黙って、淡々とやっていただきたい。それが当事者のためです。
不気味なマークや注意書きをつけて目立たせるのは、当事者のためではないでしょう? お金のためですよね? そうじゃなければも「マークを買え」とでも脅されたのでしょうか? もちろんそういうことをやったら犯罪になるわけですけれど、最近私はあちこちから悪い噂を聞くので、非常に心配しているのです。というのも、認証活動を事業化している特定NPO法人「C機構」の「 I. K
」に恫喝されたという人から、恐ろしい実話を聞いたことがあるので・・・・・・
まあ、教科書に「認証マーク」がつけられたいきさつはともかく、「思想」を売りつける方、鵜呑みにしてしまう方、共に重大な問題があるということは言えるでしょう。お付き合いのあるベテラン編集者から、このように言われました。
教科書に、「カラーユニバーサルデザインに配慮しています」なんて、
絶対に書きたくない。だって「同和教育に配慮しています」って表記
するのと似たようなものじゃないか。
まったくの同感。本気で同和問題を考えている編集者だったら、「同和教育に配慮しています」なんて軽々に表記できるはずがありません。しかし、同和問題の一部分だけをカジっただけの人なら、知ったかぶって態度表明したがることでしょう。同様に、「カラーユニバーサルデザインに配慮しています」などとという表記を派手に目立たせることや、某団体などの認証マークを貼付けてしまう行為は、「実は詳しくは知らないんですけど、私の行動はなかなか立派だと思いませんか?」というアピールでしかないのです。
って私なんかが言ったところで、この恥ずかしさは分からないんでしょうね、お馬鹿さんには。
2004年
3月
09日
火
電話相談日誌
午前中、小学校入学直前の息子さんを持つお母さんからお電話がありました。「以前より、息子の言動が気になっていた。インターネットで調べていて、いろいろな事例に目を通すうち、息子が色弱であることを確信した。これからどうしたらよいのか」というご相談でした。
このお母さんは、息子さんのようすを注意深くご覧になっています。たとえば⋯
学芸会で使った動物(着ぐるみ?)の舌を「ミドリ」と呼ぶ
先生が着ていた深緑色のセーターを「グレー」と呼ぶ
木の葉は緑色だと教えたら幹まで「ミドリ」で塗る
大理石タイルを遊び歩きしながら「ミドリのところだけ踏む!」と言う
⋯などです。
ふつうの人は「こんな極端な間違いを見逃す親はいないだろう」とお考えかも知れませんが、意外にも、こういったことを見落として育ててしまう親は多いのです。実際、「成人して就職の際に検査するまで自身の異常に気付かず、周囲からも指摘されなかった」という方も、かなり多くいらっしゃいます。
ですので、このご相談のお母さんは、なかなか子育てをしっかりがんばっていらっしゃる方なのだろうとお見受けします。こういう方のご家庭の場合は、精神的にはだいたい大丈夫。知ってしまったいま、すこし動揺していらっしゃるかもしれませんが、落ち着きを取り戻せば、きっと大丈夫。
ちなみに、「昨年11月の就学前検診で色覚の検査はなかった」と、おっしゃいます。そうなのです。近年は、あまり実施されていないのです。検査してイケナイわけではないのですが(この、検査関係のおはなしについては、また後日)。
閑話休題。
まずさしあたって重要なのが、小学校への対応です。まず担任の先生に事情を言って、配慮をしてもらうようお願いしておくのがいいでしょう。といいますのは、小学校低学年の場合、まだ語彙が少ないので、色の名前で指示することが多いからです。板書の色使いにも、トラブルはつきものです。
低学年ですと、教科書や教材にもたくさんの色が使われています。これも、まだ語彙が少ない、というのが理由です(中高学年になると字と図版が増え、色使いだけでなにかを指示させるような表記は減ります)。教材が配られたら、ざっと色の確認をしましょう。私の母は、磁石つきのちいさなオハジキひとつひとつに「アカ」「アオ」「ミドリ」「キイロ」と、手書きのシールを貼りました。が、そこまでやらなくてもいいんじゃないか、とも思います。子どもさんと「これはアカ!」とかやって、遊びながらでいいんじゃないでしょうか。
色がわからないからって、叱っちゃダメですよ。しょうがないんです、まだちいさいから。もうすこしおおきくなったら知恵がつきますので、気にしないで。この方の息子さんはポケモンが好きで、なのにお絵描きしても「よくわかんないから」といって色を塗らないのだそうです。子どもにとってお絵描きは楽しいもの。せっかくのチャンスですので、まず子どもさんの好きなキャラから、ちょっとずつ塗り絵しましょうよ。あわてないで、ひとつずつ、楽しみながら。
同じお母さんからもうひとつ、「息子に色弱だということを教えるのはいつがいいですか?」というご質問。これはとても難しいですね。考え方はふたつ、両極端なやりかたがあると思います。
(A)ひとつめは、子どもさんが自分で気付くまで教えない、というやりかた。色の間違いをしたときだけはちゃんと教えて、それが異常だとか遺伝だとか特定の進路はダメだとか、そういうのは一切教えないで放っておく。その方がノビノビ育つから。
(B)ちいさいうちから「あなたは色の見え方がほかのひとと違うのよ」とわからせて、すこしずつ色使いの工夫を覚えさせていく。将来の夢を具体的に語るようになったら、資格制限や職業適性などのこともすこしずつ教えていく。そのほうが失敗がすくないから。
これらの両方ともにデメリットがあります。(A)は、色間違いや人間関係の失敗が多くなり、子ども自身が恥をかき、色使いの経験不足に陥りやすくなり、進路決定が遅れる。(B)は、色に対する自信がなくなり、ときには思慮深くなり過ぎ、自分を責めてしまうこともあり得る。
どちらがいいのか? それは、家庭ごとに方法が違っていて、それでよろしいんじゃないでしょうか。
私の親がとった方針は(B)で、それが私には得だったと感じています。たしかに一時的に自信はなくなりますが、それを乗り越えてしまうと、色を扱うのがとても楽しい。自分にわからない配色に出会った時でさえ、「あれ、これ○○色なの? そりゃすごいねー!」という感じで、けっこう喜んで、ついはしゃいでしまいます。そしてその結果、いま、色を扱う仕事に就いているわけです。まぁ、私みたいなのは例外だといわれれば、たしかに、それまで。
ところで、ウチは(A)タイプだといって、親は知らん顔でいいのか?というと、私はそうは思いません。
子どもの体のことを詳しく知っておくのは、親として最低限の義務なのではないでしょうか。例えば、「予備知識なくいろいろ食べさせていたらひどいアレルギー体質になってしまった」というのと、「赤ちゃんのうちにアレルギー傾向を調べて気を使っていたから大きな問題を起こさなかった」というのと、どちらが親として優れているのか。
大人になってから自身の色覚異常を知り、「なんでウチの親は隠していたんだ!」と問いつめられてしまうと、親御さんとしては苦しいところです。色の間違いをタブーにせず、それも家族共有の話題の一部だと思って、楽しくコミュニケーションしていったらいかがでしょうか。(所要1時間)
2001年
4月
01日
日
文部省. 1989.『色覚問題に関する指導の手引』
旧文部省から発行された、教職員向けの冊子『色覚問題に関する指導の手引』です。このリーフレットは、当時、全国の公立の小中高等学校に各2部ずつ配付されました。市川宏先生・金子隆芳先生・高柳泰世先生ほかのみなさんが関わって作成され、当時としては内容の濃い、非常によくできた指導資料となっています。